人が長生きをするときには、一体どれだけの思い出(情報量)を抱えることができるのだろうか


過去とは現在から想起させられるものでしかなく、現在のいまわたしとはレコードの針とか、ハードディスクドライブヘッドとか。あるいは物語を指さして黙読するときのその指か目線のことであって、いま現在の認識できる微小な時間内に読み込める情報量は有限であって、

人が長生きをするときには、一体どれだけの思い出(情報量)を抱えることができるのだろうか、そう、それはつまり、忘却に対する反抗であり、過去からの襲来(情報弾)に対する防衛でもある。

例えば
今この瞬間に書き込まれる新しい情報と
今この瞬間に生じる忘れ去られる領域(エラーセクター)と
今この瞬間に生じる忘れ去られる領域を予防するために想起する(メンテナンスする)ことで消費される時間と

抱える情報量の総量をS
一つの情報あたりで、単位時間にエラーセクターの生じる確率をpとする
今この瞬間に忘却する(エラーを起こす)情報の総量(忘却速度)はSpとなる。

新しい刺激を受けている(学習している)ときに流入する情報流(書き込み流)をwとする。

つまり単位時間あたりの情報流入はw
単位時間あたりの忘却流はSp
これらが時刻tに対して変化しなければ、

時刻tにおける情報ストック量Sは

S=(w/p)(1-e^(-tp))

と表される。

これは人間にとって福音である。
忘却しようともつねに学び続ければいつまでも情報量は増大し続ける。

しかしながらこれは人間にとって死の宣告でもある。
どんなに学び続けても、無限の時間を費やしても
蓄積できる情報の総量はせいぜいw/pである。

そしてもう一つ、人間にとって悲観すべきことを残酷に示している。
新しいことを学ぶことが快楽だとして、
情報のストック速度は単調に減少し続け、最終的に0になる。
無知者こそ至上の快楽を得られる、というわけだ。

悲しい。


そしてこの数式を整理することで、一つ、私の過ちに気づいた。

何もかもを知りたいと願う場合には、どうしようもなく、まずは学習効率を改善する必要がある。無限の命を願うよりも先に、だ。
むしろ怠慢なまま無限の命を願った場合に、それは収穫逓減の法則かのように、新しい刺激を受けることができず快楽は目減りしていく。

なるほど、わたしは過ちを犯していた。


知っていることの学習効率は高い。つまり、これは先述したメンテナンス(想起)のことである。
知ったことを外部記憶にまとめて、フラッシュ学習する。忘却流を減じる効果がある。

さきの数式をにメンテナンス項を追加すると、
すなわち、メンテナンス中に生じる情報流をmとし、
学習とメンテナンスの時間の分配比率をxとすると前の式は

S={(xw+(1-x)m)/p}(1-e^(-tp))

に、ちょっとだけ、拡張される。


さて、最適なxはいくつだろうか?
それとも、mやxのもっと詳細に切り込むべきだろうか??
あるいは、体調管理や健康面、脳によいことをしてpを減じるべきだろうか??

はたまた、このモデルの欠点を述べようか
x=0の場合について、ずっとメンテナンスをし続けている場合、
それは新しい情報が入ってこないにもかかわらず内部情報が増大し続けることになる。
如何や、それはどんな事態か
漏れ出す知識が増えて外界を遮断しこわごわと内面の情報だけを上の空のようにつぶやき続ける痴呆老人のような状態で、実は内面での情報は増大し続けていました、とな?
まだ奇人変人狂人の妄想のほうがこの事態を説明はしやすい、しかし、だ。

このモデルは、内部にストックされた情報の新旧についても区別する必要がある。

だれかしら、こういうこと、すでに考えついていそうだけど、答えはあるのか